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札幌高等裁判所 昭和45年(行ス)1号 決定 1970年5月02日

抗告人(被申立人) 札幌医科大学学長

相手方(申立人) 高橋博政 外一二名

主文

原決定をつぎのとおり変更する。

抗告人が、昭和四五年一月一六日に、相手方高橋博政、同東野隆に対してした停学六月の処分は、同年五月四日までその執行を停止する。

その余の相手方らの執行停止申立を却下する。

申立費用は、第一、二審を通じ、相手方高橋博政、同東野隆と抗告人との間に生じた分はこれを二分し、その一を右相手方両名の、その余を抗告人の負担とし、その余の相手方らと抗告人との間に生じた分はその余の相手方らの負担とする。

理由

第一  抗告代理人は、「原決定を取り消す。相手方らの申立を却下する。申立費用は、第一、二審とも相手方らの負担とする。」との決定を求め、その理由として別紙抗告理由のとおり主張した。これに対し、菊地浩一をのぞく相手方ら代理人から「意見書」と題する書面(一件記録に添付)が提出され、抗告理由について反論した。

第二

一  相手方らは北海道立札幌医科大学の学生であり、原決定末尾添付別表記載のとおり(ただし、本島敏明および小畑博志の欄をのぞく。以下同じ。)同大学に在籍しているものであるが、昭和四五年一月一六日、当時の同大学学長新保幸太郎(以下単に学長という。)により同別表記載のとおりの処分をうけたことは、一件記録により明らかである。

そこで抗告理由の順序にしたがつて、前記意見書記載の反論をしんしやくしたうえ、右処分の執行停止の要否について判断する。

二  抗告理由第一点について。

公立大学における学長の懲戒処分は、それが社会観念上いちじるしく妥当を欠く場合をのぞいては、原則として学長の裁量にまかされる。疎明によると、学長は、本件処分をなすにあたつて、抗告人申立のような相手方らの個々の行為について、目撃者の確認書その他の資料にもとづいて事実を認定したうえ処分を決定したことが、一応認められる。ところが、相手方らは、右確認書は、相手方らと敵対関係にあるいわゆる民青系の学生らが適当に作成したもので、その証明力は疑わしいと抗争し、疎明として、相手方らの陳述書を提出している。右陳述書だけでは、疎明としても十分ではないが、相手方らの抗争する点は、学長の処分に右に述べた意味での瑕疵があるかどうかを決するうえで重要な要素があるので、なお、本案において慎重に証拠調して判断するのが相当である。結局、現段階では、いまだ本案について理由がないとみえるとは断定できない。

三  同第二点について。

本件処分の執行を停止しても、公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるとはいえない。その理由は、原決定一〇枚目表九行目から末行までにいうとおりなので、これを引用する。

四  同第三点について。

(一)  相手方らが停学処分をうけたことにより、その処分が有効に存続するかぎり、講義、試験をうけられず、ひいては進級、卒業がおくれるおそれがあり、経済的、精神的に苦痛をうけることは、いうまでもない。とくに、疎明によると、医学教育の特殊性から、講義への出席が受験、進級、卒業のため必須の要件をなしているため、講義に欠席せねばならないことによる苦痛が、医学以外の教育をうける学生にくらべて大きいことがうかがえる。

しかし、停学処分は、在学の身分をそのままにしたまま、定期または不定期の期間、学生に教育をうけさせない処分であるから、期間が経過するか、確定判決によつてこれが取り消されると、以前の就学関係が回復され、学生は当然従来どおりの教育をうけられる。

そこで、処分の執行停止の要否は、その期間の経過まで、あるいは勝訴の確定判決をうけるまで待つていては、就学関係の回復が無意味になるか、いちじるしく困難になるかどうかの点から、これを決定しなければならない。この場合、医学教育の特殊性は、執行停止の要否をきめる一要素にはなるが、そのことからただちに執行停止を必要とするとまではいえない。

(二)  ところで、相手方高橋博政および同東野隆をのぞく相手方らは、すでに出席時間数の不足により、昭和四四年度の進級試験の受験資格を失つており、同年度の授業をうけられないことをもつて回復困難な損害をうけるものとはいえない。そのことは、原決定八枚目表七行目から同裏一〇枚目までに説示するとおりであるから、これを引用する。したがつて右両名をのぞく相手方らについては、昭和四五年度以降の講義をうけられないことによる損害だけが問題となる。

(三)  相手方小林孝、同今井正治、同加登譲、同前川純、同山崎充、同近藤信夫は、無期停学の処分をうけ、これにより、講義に出席できず、かつ試験をうけられず、留年および卒業延期のおそれが、処分の取り消されるまで、不定期間、継続することとなる。しかし、同時に、無期停学処分は、ある程度の期間が経過したのちに学長の裁量により取り消されることを予定しているものといえる。そこで、学長が処分を取り消すか、または、相手方ら勝訴の判決が確定するまでの間の処分の執行を停止しなければ、就学関係の回復を無意味あるいはいちじるしく困難となる事情があれば執行を停止すべきこととなるが、現段階では、医学部教育の特殊性を考慮しても、そのような疎明があつたということはできない。もつとも、将来、この処分が長く継続することによつて、被処分者の不利益が増大し、執行停止を必要とする事態となることも考えられるが、現段階では、全疎明を総合しても、そのような事態は認められず、将来、その事態が現実化した時点で考えるほかない。

(四)  相手方加藤三保子、同大西忠博、同松本隆、同菊地浩一、同土田博美は、六か月の停学処分をうけたことによつて、昭和四五年度の講義も一部受講できないことになり、留年のおそれが、生じることがないわけではない。ただし、疎明によると、昭和四五年度の授業は、進学過程一年の相手方松本隆については同年五月一八日から、専門過程二年の同加藤三保子、同大西忠博、同菊地浩一、同土田博美については同年同月二五日から開始されることが認められ、同開始時における停学処分の残期間はいずれも二か月弱となるが、この期間欠席しても、「進学過程授業科目履修方法、試験及び進級取扱に関する規程」第四条および「専門過程試験及び進級取扱に関する規程」第三条による進級試験受験のための要件である各講座の一年の講義時間数の三分の二以上の出席時間数を欠くことにはならないから、医学教育の特殊性を考慮にいれても、留年をまぬがれる機会は十分にあり、留年のおそれも、それほど大きなものとはいえない。もつとも、六か月というような停学処分の場合は、本案の訴訟係属中に処分期間が経過し、処分取消訴訟を提起した目的を達せられなくなる蓋然性がつよいが、このことは、立法上、出訴により、当然に、あるいは簡単な要件で、処分の執行を停止するという建前をとつていないわが国においては、六か月というような有期の処分の性質上必然的なことであつて、やむをえないといわざるをえない(もつとも、のちに損害賠償請求等の方法によつて、処分の違法性を確定し、名誉の回復を求めることができないわけではない。)。そして、前述したような、残る二か月弱の処分期間の経過によつて、就学関係を回復することが無意味となり、あるいはいちじるしく困難となるような特別の事情が存在することについては、全疎明を総合しても、これを認めることはできない。ただ、さらに、すでに、この段階において、学長の処分に前述したような瑕疵があることが明らかになつているときは、学生はたとえ二か月弱であつても、欠席を強制されるいわれはなく、一日でも講義に出席できないことが重大な損害であるといえる(この点は、前記の無期停学の場合も同じである。)が、現段階における疎明を総合しても、右のような瑕疵は明らかでない。

(五)  相手方高橋博政、同東野隆は、六か月の停学処分をうけたが、昭和四四年度の講義および試験をうけるため、その処分の執行を一定期間停止すべきものと判断する。その理由は、つぎに付加するほか、原決定八枚目裏一二行目から九枚目表一〇行目までに説示するとおりであるから、これを引用する。これによれば、右両名は、原決定時において、同年度の残る講義をうければ前記規程による受験資格をかろうじてみたすことになるわけであつて、もし、この受験資格をうばうこととなると、昭和四四年度の留年が確定することとなる。そして、本件のごとくたまたま処分の効力が昭和四四年度、同四五年度の二年度にまたがることによつて、昭和四五年度の留年の危険(もつとも、その危険は、後記のとおりそれほど大きなものではないが、)をも負担することになるのであつて、処分時までの出席状況が、同じく六か月の停学処分をうけた前記(四)の相手方らよりよかつたにもかかわらず、かえつて大きな不利益を負担することになるのであつて、右相手方らに比し、いちじるしく均衡を失することになる。そして、原決定時においてただちに処分の執行を停止しなければ、右両名とも所定の出席時間数が不足することとなる科目のあることは、原決定認定のとおりであるから、その執行停止は、損害を避けるため緊急の必要があつたといえる。

ところで、疎明によると、進学過程一年である右両名の試験は、昭和四五年五月四日に終了することが認められる。そこで、その翌日以降について、処分の執行停止の必要があるかどうかについて検討する。疎明によると、進級過程の講義は、昭和四五年五月一八日から開始されることが認められ、右処分の執行を同年五月五日から(再)進行さすこととすると、講義開始時からなお三か月余り処分の効力が残ることとなるが、その一部は夏期休暇にかかるものと推測され、前記(四)の相手方らより若干長い期間の欠席が強制されることになるにすぎない。したがつて、右両名は、昭和四五年度について、留年の危険があるとはいうものの、進級できる可能性も十分にあり、留年の危険は、それほど大きいとはいえない。そして、前述したような、残る三か月余の執行を停止しなければならないほどの特別の事情についての疎明はなく、また、現段階においてすでに両名に対する処分について前述のような瑕疵が明らかになつているともいえない。

そうすると、両名に対する処分の執行は、昭和四五年五月四日までにかぎつて執行を停止すべきものである。

第三  以上のとおりであつて、相手方高橋博政、同東野隆の申立については、昭和四五年五月四日まで処分の執行を停止するかぎりでこれを認容し、その余の相手方らの申立は失当であるからこれを却下すべきものであり、これと結論を異にする原決定は右のとおり変更することとし、申立費用については民事訴訟法第九二条、第九三条、第八九条を適用して主文のとおり決定する。

(裁判官 原田一隆 神田鉱三 岨野悌介)

抗告理由

第一点

原決定は「本案について理由がないとみえる」にも拘らず、執行停止を認めた違法がある。

一、本件停学処分は別紙記載のとおり、相手方らが、昭和四四年七月一六日から同年一二月一二日までの間、進学課程校舎を封鎖・占拠した行為(建造物侵入、不退去罪、器物損壊)同年八月二三日から一二月一二日までの間、学務部、図書館、大講堂、基礎医学校舎を封鎖・占拠した行為(同上の罪)並びに昭和四五年一月八日授業再開後本学学生に対し、暴行、傷害、授業妨害等をなした行為に対しなされたものであつて、これらの行為は大学の使命とも言うべき教育・研究を阻害し、本学学生の授業を受ける権利を侵害するばかりか、道民の財産たる大学施設に著しい損害を与え、学生の進級のみならず卒業を遅延させ、昭和四五年度の新入生の自宅待機をも余儀なくさせたものであつて、犯罪行為を含み、かつ、教育をうけ研究をする立場にある学生たるにふさわしい行為ということはできないので、昭和四五年一月一六日、相手方らを「本学学則その他本学の定める諸規則を守らず学生の本分に反する行為のあつた者」として、学校教育法第一一条、本学学則第三一条に基き別紙記載のとおり停学処分にしたものである。(疎乙第一号証の一から六、第二号証の一から一五、第三ないし第六号証)

二、右停学処分の決定にあたつては、事実の確認を慎重に行い、(例えば証人が一人だけのものとか、行為の内容について具体性を欠くものは資料として不採用)行為の軽重、態様のほか、本人の性質及び平素の行状、右行為が他の学生に与える影響、懲戒処分が本人及び他の学生に及ぼす訓戒的効果その他一切の事情を考慮し、教育的見地から公平に行つたもので、いやしくも信条、性別、身分等によつて差別をしたり、思想及び良心の自由を侵すようなことはしていない。またその手続は、学長が教授会の議を経て、適式に行つたもので、事前に警告を発してその反省を求め、さらに保証人らに面接の上処分の理由を明かにしている。それ以上さらに弁明の機会を与えることはその必要がないばかりか、たとい弁明の機会を与えても、これに応ずるような状況にはなかつた(出頭する見込みもうすく、出頭しても黙秘される公算が大きかつた)ので、時機を失することなく、あの時点において処分することが、教育正常化のために必要であると認めて本件停学処分の措置にでたもので、手続上何等の違背もない。(疎乙第二号証の一から一五、第三ないし第六号証)

三、処分の内容においても、本学学則第三一条第二項所定の戒告、謹慎、停学及び退学のうち、最も重い退学をさけて停学とし、相手方らに反省の機会を与え、今後の行動いかんにより、就学の余地を残したもので、学校教育法施行規則第一三条第一項に規定する教育上必要な配慮もなされた妥当な処分であり、裁量権の濫用などというべきものではない。(現に停学処分の教育的効果を認めて、処分を解き、就学中の者のあること後記のとおりである。)

四、そもそも大学の学生に対する懲戒処分は、教育施設としての大学の内部規律を維持し、教育目的を達成するために認められた自律的作用に基くものである。したがつて大学が学生の行為に対し、懲戒処分を発動するかどうか、懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶかを決定することは、懲戒権者の裁量に任せられているものであつて、その決定が全く事実上の根拠に基かないと認められる場合とか、もしくは社会通念上著しく妥当を欠き裁量権の範囲を越えるものと認められる場合を除き、司法審査の対象とならないものである。(最高裁昭和二九年七月三〇日第三小法廷判決、民集八巻七号)けだし、学長の懲戒権の行使は、懲戒事由とされる学生の行為の軽重、態様のほか、本人の性質及び平素の行状、右行為が他の学生に与える影響、懲戒処分が本人及び他の学生に及ぼす訓戒的効果その他諸般の要素を考慮する必要があり、これらの点の判断は、学内の事情に通暁し直接教育の衝に当るものの裁量に任すのでなければ、適切な結果を期することができないからである。

これに対し教育の素人である裁判所が介入することは、教育の専門職であり、大学の管理運営の責任者である学長及び教授会の権限を侵すことになつて、三権分立を基調とする憲法の精神に反するから、許すべからざるものである。本件停止処分は、前述のとおり、事実上の根拠に基き、かつ社会通念上妥当な処分であるから、裁量権の範囲を越えるものではなく、したがつてその取消を求める訴は、司法審査の対象とならない。だから懲戒処分の取消を求める訴を本案とする執行停止は行政事件訴訟法第二五条第三項にいう「本案について理由がないとみえるとき」に該当し、これをすることができないものである。原決定は取消を免れない。

第二点

原決定は「公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがある」にも拘らず、執行停止を認めた違法がある。

一、近年全国の各国公私立の大学において、校舎の封鎖、占拠、授業妨害、暴行、傷害等およそ大学の正常な管理、運営を阻害する行為が多数発生し、このため授業実施の遅延、新入生の自宅待機等の事態を招き、昭和四四年七月には大学の運営に関する臨時措置法が制定施行され、大学問題が今や大きな社会問題となつたことは顕著な事実であつて、大学の管理、運営並びに教育の正常化について学長の負うている責任は重大である。

二、相手方らは、「バリ斗」(バリケード闘争委員会)の中心人物として、大学の封鎖、占拠等を指揮煽動し、本学における教育、研究を阻害し、その正常な運営を乱し、昭和四五年度の新入生の自宅待機をも余儀なくする状態に追い込んだことは周知のとおりである。大学当局は、やむなく警察力を導入し、困難な作業を続けて、ようやく不正常な状態を是正し、正常な教育活動の見通しをつけたところである。そうして昭和四五年一月八日授業再開後は、封鎖派あるいは封鎖派に加担する学生も授業に出席し、休憩時間、放課後等において、本学学生に対して討論を強要し、下校を妨害する等の行為が続いて、学内秩序が多少乱れる面もあつたが、本件懲戒処分後はようやく正常化に近づきつつあるように見られるにいたつた。しかしながら、相手方らのうち一部学生は、構内立入禁止の措置を無視して大学構内に立ち入り、本学学生に対して暴力を加えるほか、処分弾劾集会に参加していることが確認され、また昭和四五年三月三日、四日に実施された本学入学試験の際は、受験生に対しビラ(疎乙第七号証)を配布し、アジ演説を行い、本件停学処分による反省の態度はみられない。

三、抗告人は前段説明のように、大学の管理、運営並びに教育正常化について重大な責任を負うているので、広い教育的見地に立つて本件の懲戒処分をしたのである。すなわち、退学処分とせずに、停学処分を選び、本人が懲戒処分を受けた原因をよく反省し、爾後学生の本分を尽すものと認められれば早急に停学を解く(現に相手方らと同時に停学処分を受けた徳田禎丈、岡和田昌弘は昭和四五年三月二日、同鎌田一は三月九日、同内田裕、佐々木敏男は三月二八日、それぞれ停学処分を解かれて就学中)等の考慮を払つている。

四、ところが、何等こうした教育的考慮を払うことなく、原決定は、停学処分は回復の困難な損害を与えるものとして、その効力を停止した。これは学長が学校教育法第一一条に基いて行つた懲戒処分に対する介入であり、三権分立を基調とする憲法の精神に反することは言うまでもないが、相手方らと類似の行為をなした学生に対し、停学等の懲戒処分を行い、または行なおうとしている全国各大学に及ぼした影響は大きく、大学の秩序を守り、教育の正常化をめざして日夜苦慮している学長の措置に著しい制約を加えるものである。もし原決定に従うなら、懲戒処分は戒告と謹慎に限定され、学生は校舎の封鎖、占拠、器物損壊、暴行、傷害、授業妨害等何をやつても停学や退学処分をうけることがないという保障を得たこととなり、その結果、全国各大学の紛争解決を極めて困難なものとし、ひいて国家、社会の教育、研究の正常な実施を確保するという公益すなわち公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれは多分にあるのである。原決定は行政事件訴訟法第二五条第三項に違反し、取消を免れない。

第三点

原決定は、「処分により生ずる回復の困難な損害を避ける緊急の必要」がないのに、執行停止を認めた違法がある。

一、停学処分とは当該学生の修学の権利を一時停止する処分であるから、学問、技能の修得が停学期間中不能となることは、それ自体停学処分の内容をなすものであつて、その結果定期試験の受験資格を失い、ひいて進級ないし卒業ができなくなることがあるのは、懲戒の性質上、やむを得ないところである。しかも停学処分は退学処分と異なり、修学の一時停止であつて、停学処分が解かれれば、学問、技能は十分修得できうるものであるから回復の困難な損害を生ずるものとはいえない。また定期試験の受験資格を失い、昭和四四年度または昭和四五年度等に進級ないし卒業ができなくなるからといつて、ただちに損害を避けるため緊急な必要があると結論することもできないのである。

二、原決定のように、「学生が停学処分をうけたことにより授業を受けることができない場合には、そのことにより目的とする学問、技能の修得が不能となり、ひいては進級若しくは卒業が遅れることにもなり、その者が損害を受けることは明らかであるし、かつ停学処分が本案において取消され、その結果その者が停学処分を受けた期間も授業を受けたと同様の取扱いがなされるとしても、現実に授業を受けていない期間がかなりの長期にわたる場合には、そのことによつて所期の学問、技能を身につけることができなかつたことによる損害が、右の取扱いによつて回復できたとみることはできないから、右の損害は性質上回復し難いものと解するのが相当である」というなら、停学処分は、常に回復の困難な損害を生ずることとなり、また停学処分を受けた学生に一科目でも授業時間の三分の一に近い欠席があれば、「直ちに定期試験の受験資格を失うから、右損害を避けるため緊急の必要がある」というなら、授業時間の三分の一に近い欠席のある学生に対する停学処分は、常に損害を避けるため緊急な必要があることとなるだろう。

三、また原決定はその主文において「抗告人が昭和四五年一月一六日に相手方らに対してなした停学処分の効力は……それぞれ原裁判所昭和四五年(行ウ)第四号停学処分取消請求事件の判決が確定するまで停止する」と命じている。そうしてその第一回口頭弁論期日が昭和四五年五月一八日午後一時と指定された。右判決の「確定する」のが数年先になることは必至である。それまで停学処分の効力が停止される結果、学生は授業を受け進学ないし卒業してしまうことになるであろう。進学ないし卒業してしまえば、本訴は訴の利益を欠くこととなる。すなわち本訴の結果を待たずに停学処分は無効となるのである。

四、そういうわけで、もし原決定が維持されれば、今後停学処分は一切できないことになり、退学処分はなお一層難かしくなるであろう。これは、学校教育法の規定する懲戒制度を根底から否定するもので、断じて承服できない。原決定は、結局行政事件訴訟法第二五条第二項の解釈を誤り、「処分により生ずる回復の困難な損害を避ける緊急の必要」がないのに、執行停止を認めた違法があり、取消さるべきものである。

一、申立人らは、各左記の行為があつたものと認定されて本件の停学処分となつたものである。

(一) 高橋博政―進学課程一年、停学六月(疎乙第二号証の一)

ア 昭和四十五年一月八日午後一時三十分頃、進学校舎第一講義室において進学一年岡部哲昭に対し、軟禁、ける、胸ぐらをつかまえる等の暴行を行なつた(一ページ)。

イ 昭和四十五年一月十二日午前九時頃、進学校舎玄関前において進学二年本田哲史に対し暴行を加えた(二ページ)。

ウ 昭和四十五年一月八日午前十一時頃、進学校舎第一講義室において、教壇を占拠し、授業妨害行為を行なつた(三ページ)。

エ 昭和四十五年一月九日午前九時頃、進学校舎玄関において入構阻止のピケツトを張り、授業再開誓約書を破りすてる等の授業妨害行為を行なつた(四ページ及び五ページ)。

オ 昭和四十五年一月十三日午前八時五十分頃、進学校舎玄関前において入構阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(六ページ)。

カ 昭和四十五年一月十四日午前九時頃、進学校舎玄関前において入構阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(七ページ)。

(二) 加藤三保子―専門課程二年、停学六月(疎乙第二号証の二)

ア 昭和四十四年九月十二日、封鎖中の校舎で活動しており、封鎖グループに参加していた(二ページ)。

イ 昭和四十四年九月二十六日、進学校舎内に居住しており、封鎖グループに参加していた(一ページ)。

ウ 昭和四十四年十一月十二日午後三時三十分頃、封鎖グループの一員として病院会議室に押しかけ、教授会の議事を妨害した(四ページ)。

エ 昭和四十五年一月十三日午前八時五十分頃、進学校舎玄関において入構阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(五ページ)。

(三) 木島敏明―専門課程二年、停学三月(疎乙第二号証の三)

ア 昭和四十四年九月十日、封鎖中の進学校舎玄関前でアジ看板を作つており、封鎖グループに参加していた(二ページ。証人一人につき本件処分の教授会の資料としては不採用。以下「証人一人不採用」等と省略する)。

イ 昭和四十四年九月十二日、封鎖中の図書館付近で屋上に立てた赤旗らしいものを携行しており、封鎖グループに参加していた(一ページ。証人一人不採用)。

ウ 昭和四十四年九月十二日、封鎖中の大講堂で行なわれた団交に封鎖グループの一員として出席した(三ページ。証人一人不採用)。

エ 昭和四十五年一月八日午後零時十五分頃、西第二講堂において専門二年三田村幌に対し、腕をねじる、なぐる、ける等の暴行を行なつた(四ページ)。

オ 昭和四十五年一月八日午後零時十分頃、西第二講堂において専門二年中井秀紀に対し、顔面をなぐる、こづく等の暴行を行なつた(五ページ。証人一人不採用)。

カ 昭和四十五年一月八日午後零時十分頃、授業中の西第二講堂にはいり、暴力行為により授業妨害を行なつた(六ページ)。

キ 昭和四十五年一月十日午前九時四十五分頃、臨床第一講堂において授業妨害を行なつた(七ページ。内容未確認不採用)。

(四) 大西忠博―専門課程二年、停学六月(疎乙第二号証の四)

ア 昭和四十五年一月八日午前十時二十分頃、西第二講堂後部入口前において専門二年久保義彦に対し、首をしめる、身体をふりまわす等の暴行を行なつた(一ページ)。

イ 昭和四十五年一月八日午前十時頃及び同日午後零時十五分頃の二度にわたり、専門二年三田村幌に対し、なぐる、引張る、首をしめる等の暴行を行なつた(二ページ)。

ウ 昭和四十五年一月八日午後零時三十分頃、西第二講堂において専門二年深津祐子に対し、こづく、えり口を引張る等の暴行を行なつた(三ページ。証人なし不採用)。

エ 昭和四十五年一月八日午後零時四十分頃、西第二講堂において専門二年村上俊吾に対し、えり首、オーバーなどを引張る等の暴行を行なつた(四ページ。証人一人不採用)。

オ 昭和四十五年一月十四日午前八時三十分頃、本部正面玄関において専門三年林一彦に対し、顔面をなぐる等の暴行を行なつた(五ページ)。

カ 昭和四十五年一月八日午前十時十五分頃、西第二講堂において入口に入室阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(六ページ)。

キ 昭和四十五年一月八日午後一時四十分頃、臨床第一講堂に押しかけ、授業妨害行為を行なつた(七ページ)。

ク 昭和四十五年一月十日午前九時四十五分頃、臨床第一講堂に押しかけ、授業妨害行為を行なつた(八ページ。内容未確認不採用)。

(五) 小畑博志―進学課程一年、停学三月(疎乙第二号証の五)

ア 昭和四十五年一月八日午後一時三十分頃、進学第一講義室において進学一年岡部哲昭に対し、軟禁、なぐる、胸ぐらをつかまえる等の暴行を行なつた(疎乙第二号証の一の一ページ)。

イ 昭和四十五年一月八日午前十一時三十分頃、進学第一講義室において教壇上からアジ演説を行ない、授業妨害行為を行なつた(二ページ)。

ウ 昭和四十五年一月九日午前九時頃、進学校舎玄関において入構阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(三ページ)。

エ 昭和四十五年一月十日午前九時頃、進学校舎玄関前において入構阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(四ページ)。

(六) 東野隆―進学課程一年、停学六月(疎乙第二号証の六)

ア 昭和四十五年一月八日午後一時十五分頃、進学校舎内において進学一年倉田良子に対し、帰路を妨害する等の暴行を行なつた(八ページ)。

イ 昭和四十五年一月八日午後一時三十分頃、進学第一講義室において進学一年岡部哲昭に対し、軟禁、ける、胸ぐらをつかまえる等の暴行を行なつた(疎乙第二号証の一の一ページ)。

ウ 昭和四十五年一月十四日午前八時五十分頃、進学校舎周辺において進学二年槇本深に対し、顔面、下腹部をなぐる等の暴行を行なつた(疎乙第二号証の十一の二ページ)。

エ 昭和四十五年一月八日午前十一時頃、進学第一講義室において教員をつるし上げる等の授業妨害行為を行なつた(二ページ)。

オ 昭和四十五年一月九日午前九時頃、進学校舎玄関において入構阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(三ページ)。

カ 昭和四十五年一月十日午前九時頃、進学校舎玄関前において入構阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(四ページ)。

キ 昭和四十五年一月十二日午前九時頃、進学校舎玄関において入構阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(五ページ)。

ク 昭和四十五年一月十三日午前八時五十分頃、進学校舎玄関前において入構阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(六ページ)。

ケ 昭和四十五年一月十四日午前九時頃、進学校舎玄関前において入構阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(七ページ)。

(七) 小林孝―専門課程二年、無期停学(疎乙第二号証の七)

ア 昭和四十五年一月八日午前十一時十五分頃、西第二講堂において専門二年三田村幌に対し、顔、腹部をなぐる等の暴行を行なつた(一ページ)。

イ 昭和四十五年一月八日午後零時十分頃、西第二講堂において専門二年中井秀紀に対し、顔面をなぐる等の暴行を行なつた(二ページ)。

ウ 昭和四十五年一月八日午後零時三十分頃、西第二講堂において専門二年後木健一に対し、顔面をなぐる等の暴行を行なつた(三ページ)。

エ 昭和四十五年一月八日午後零時四十分頃、西第二講堂において専門二年深津祐子に対し、なぐる等の暴行を行なつた(四ページ。証人なし不採用)。

オ 昭和四十五年一月八日午後一時頃、西第二講堂において専門二年村上俊吾に対し、顔、腹部をなぐる等の暴行を行なつた(五ページ)。

カ 昭和四十五年一月十日午前八時四十五分頃、臨床第二講堂において専門三年野村靖宏に対し、後頭部をなぐる等の暴行を行なつた(六ページ。証人なし不採用)。

キ 昭和四十五年一月十二日午前九時頃、本部正面玄関において専門二年北崎光男に対し、顔面、あごをなぐる等の暴行を行なつた(七ページ)。

ク 昭和四十五年一月十三日午前九時頃、進学校舎玄関前において進学二年本田哲史に対し、暴行を行なつた(八ページ)。

ケ 昭和四十五年一月十四日午前八時三十分頃、本部正面玄関において専門二年斎藤宣照に対し、顔面、腹部をなぐる等の暴行を行なつた(九ページ)。

コ 昭和四十五年一月十四日午前九時頃、本部正面玄関において専門三年渡辺一晶に対し、なぐる、けとばす等の暴行を行なつた(十ページ。証人なし不採用)。

サ 昭和四十五年一月八日午後零時十分頃、西第二講堂において授業中の学生に対し、暴行を行なう等の授業妨害行為を行なつた(十二ページ)。

シ 昭和四十五年一月八日午後一時四十分頃、臨床第一講堂に押しかけ、授業妨害行為を行なつた(十三ページ。内容未確認不採用)。

ス 昭和四十五年一月十日午前九時四十五分頃、臨床第一講堂に押しかけ、授業妨害行為を行なつた(十四ページ。内容未確認不採用)。

(八) 松本隆―進学課程一年停学六月(疎乙第二号証の八)

ア 昭和四十五年一月十三日午前九時頃、進学校舎玄関において進学二年青木幸範に対し、顔面をなぐる等の暴行を行なつた(一ページ。証人一人不採用)。

イ 昭和四十五年一月十四日午前八時三十分頃、本部正面玄関前において専門二年斎藤宣照に対し、腹部をける等の暴行を行なつた(二ページ)。

ウ 昭和四十五年一月十四日午前八時三十分頃、本部正面玄関前において専門一年田村正に対し、胸部、大腿部をける等の暴行を行なつた(三ページ)。

エ 昭和四十五年一月八日午前十一時頃、進学第一講義室において入室阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(四ページ)。

オ 昭和四十五年一月九日午前九時頃、進学校舎玄関において入構阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(五ページ)。

カ 昭和四十五年一月十日午前九時頃、進学校舎玄関前において入構阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(六ページ)。

キ 昭和四十五年一月十三日午前八時五十分頃、進学校舎玄関前において入構阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(七ページ)。

ク 昭和四十五年一月十四日午前八時五十分頃、進学校舎玄関前において入構阻止のピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(八ページ)。

(九) 今井正治―専門課程二年、無期停学(疎乙第二号証の九)

ア 昭和四十四年七月十六日(進学校舎が封鎖された日)、臨床第二講堂において教授会が助教授、講師等に対して事情説明を行なつた際、今井は、この説明会場に封鎖グループの学生代表として前川純とともにあらわれ「教授会との約束を破つて封鎖したのは、戦術である。」と述べた(一ページ)。

イ 昭和四十四年十一月十二日午後三時三十分から行なわれた教授会に封鎖グループの学生が押しかけ、学長の立退き命令に従わず団交を強要したが、今井は、その一員として加わつていた(二ページ)。

ウ 昭和四十四年八月十日頃、封鎖中の進学校舎玄関においてアジ看板をつくつていた(七ページ)。

エ 昭和四十五年一月八日午前十時頃、西第二講堂入口においてピケツトを張り、授業妨害行為を行なつた(八ページ)。

オ 昭和四十五年一月八日午後一時四十分頃、臨床第一講堂に押しかけ、授業妨害行為を行なつた(九ページ)。

カ 昭和四十五年一月十日午前九時四十五分頃、臨床第一講堂に押しかけ、授業妨害行為を行なつた(十ページ)。

キ 昭和四十五年一月十日午前九時三十分頃、本部正面玄関前において専門二年後木健一の顔面をなぐる、首をしめつける、胸ぐらをつかまえてふりまわす等の暴行を行なつた(六ページ)。

ク 昭和四十五年一月八日午後零時三十分頃、西第二講堂において専門二年岡本賢三のえり首をつかんでなぐりながら壁のところに連れてゆき、胸をなぐり、かつ、腹部と足を数回けつた(七ページ。証人一人不採用)。

ケ 昭和四十五年一月十日午前九時頃、専門二年中村光成の胸をなぐつた(五ページ。証人一人不採用)。

(十) 加登譲―専門課程二年、無期停学(疎乙第二号証の十)

ア 昭和四十四年十一月十二日午後三時三十分から行なわれた教授会に封鎖グループの学生が押しかけ、学長の立退き命令に従わず団交を強要したが、加登は、その一員として加わつていた(二ページ)。

イ 昭和四十四年十二月十一日午後四時頃、封鎖中の進学校舎にいた(一ページ。証人一人不採用)。

ウ 昭和四十五年一月八日午前十一時十五分頃から十二時頃にかけて、西第二講堂において専門二年三田村幌の頭部、顔面、腹部を十回以上なぐり、ける等の暴行を行なつた(七ページ)。

エ 昭和四十五年一月八日午後零時十分頃、西第二講堂において専門課程二年中井秀紀の髪をひつぱり、なぐる、ける等の暴行を行なつた(八ページ)。

オ 昭和四十五年一月八日午後零時四十分頃、西第二講堂において専門二年深津祐子の髪をひつぱつた(九ページ)。

カ 昭和四十五年一月八日午後零時三十分頃、西第二講堂において、授業を受けようとする学生に暴行を行ない、授業妨害行為を行なつた(十ページ)。

(十一) 菊地浩一―専門課程二年、停学六月(疎乙第二号証の十一)

ア 昭和四十五年一月八日午前十時三十分頃から午後一時頃にかけて、西第二講堂においてピケツトを張り、授業を受けようとする学生に暴行を行ない、授業妨害行為を行なつた(四ページ)。

イ 昭和四十五年一月八日午前十時頃、西第二講堂入口及び同講堂内において専門二年三田村幌をなぐつた(一ページ)。

ウ 昭和四十五年一月十四日午前八時五十分頃、進学校舎玄関前において進学二年槇本深の鼻をなぐり(出血)、下腹部をけつた(二ページ)。

エ 昭和四十五年一月十四日午前八時五十分頃、進学校舎玄関前において進学二年高後裕の左大腿部に打撲症を与えた(三ページ)。

オ 昭和四十五年一月十四日午前八時五十分頃、進学校舎玄関前において進学二年佐藤昇志の左大腿部に打撲症を与えた(五ページ。証人一人不採用)。

(十二) 前川純―専門課程二年、無期停学(疎乙第二号証の十二)

ア 昭和四十四年七月十六日午後二時四十五分頃、進学校舎が封鎖された直後、伊藤、林両教授が封鎖を解き撤去するよう命令したが、前川は、屋上から封鎖貫徹を叫び両教授にば声をあびせた(一ページ)。

イ 封鎖中の進学校舎内の赤電話が不当に使用され、料金徴収が不能となつたので、右電話の設置者たる弘仁会の常務理事が昭和四十四年八月十二日午後二時頃交渉に行つたところ、同校舎内から学生代表として前川があらわれた(五ページ)。

ウ 封鎖中の大講堂内において、昭和四十四年九月十二日午後三時から行なわれた団交の席に、前川は、ヘルメツトを着用して出席した(九ページ)。

エ 昭和四十四年十一月十二日午後三時三十分から行なわれた教授会に封鎖グループの学生が押しかけ、学長の立退き命令に従わず団交を強要したが、前川は、その中に加わつていた(十一ページ)。

オ 昭和四十四年十一月十三日午前三時頃、病院会議室において行なわれた教授会の席上「進学の赤電話の使用を認めない限り、電灯、暖房を切つた状態を続ける」旨述べた(十三ページ)。

カ 昭和四十五年一月八日午後零時二十分頃、西第二講堂においてピケツトを張り、授業をうけている学生に対して暴行を行ない、授業妨害行為を行なつた(十九ページ)。

キ 昭和四十五年一月八日午後零時四十五分から午後一時にかけて西第二講堂において専門二年三田村幌をけり、階段から突きおとした(十七ページ)。

ク 昭和四十五年一月八日午後零時三十分頃、西第二講堂において専門二年岡本賢三の胸部、腹部等を連続的になぐつた(十六ページ)。

ケ 昭和四十五年一月八日午後零時五十五分頃、西第二講堂において専門二年斎藤宣照の顔面をなぐつた(十八ページ。証人一人不採用)。

(十三) 山崎充―専門課程二年、無期停学(疎乙第二号証の十三)

ア 昭和四十四年十月二十四日午前十一時三十分頃、(十二)のイの電話に係る電話料の請求のため本学事務職員が封鎖中の進学校舎におもむいたところ、山崎がでてきて請求書を受けとつた(一ページ)。

イ 昭和四十五年一月八日午前中(時刻不明)西第二講堂においてピケツトを張り、暴行を行ない、授業妨害行為を行なつた(十四ページ)。

ウ 昭和四十五年一月八日午後一時四十分頃、臨床第一講堂において授業妨害行為を行なつた(十五ページ)。

エ 昭和四十五年一月十日午前九時四十五分頃、臨床第一講堂において授業妨害行為を行なつた(十六ページ)。

オ 昭和四十五年一月八日午後零時十五分頃、西第二講堂において専門二年後木健一を突き倒した(二ページ)。

カ 昭和四十五年一月八日午後零時二十分頃、西第二講堂入口前において専門二年久保義彦の首をしめ、振りまわし、ひきずる等の暴行を行なつた(三ページ)。

キ 昭和四十五年一月九日午前十時十分頃、本部正面玄関において専門二年北崎光男の左向うずねを力いつぱいけつた(四ページ)。

ク 昭和四十五年一月九日午前十一時二十分頃、本部正面玄関において専門二年久保義彦の身体を突き、腹部をなぐつた(五ページ)。

ケ 昭和四十五年一月九日午前十一時三十分頃、本部正面玄関において専門二年斎藤宣照の顔面をなぐり、下腹部とすねをけとばした(六ページ)。

コ 昭和四十五年一月九日午前十一時三十分頃、本部正面玄関前において専門二年笹原政美の首をしめ、なぐる、ける、こずく等の暴行を行なつた(七ページ)。

サ 昭和四十五年一月十三日午前九時頃、進学校舎玄関前において進学二年川上康博の顔面を数回なぐつた(十ページ)。

シ 昭和四十五年一月十四日午前八時二十五分頃、本部正面玄関において専門一年菅優の顔面をなぐつた(十二ページ)。

ス 昭和四十五年一月八日午後零時四十分頃、百第二講堂において専門二年深津裕子の肩をつかんだ(八ページ。証人一人内容未確認不採用)。

セ 昭和四十五年一月八日午後一時頃、西第二講堂において専門二年中佐藤利一の頭部を平手で強打した(九ページ。証人一人不採用)。

ソ 昭和四十五年一月十三日午前九時頃、進学校舎玄関前において進学二年熊谷卓司の顔面、腹部をなぐり、下腹部をけつた(十一ページ。証人一人不採用)。

タ 昭和四十五年一月十四日午前九時頃、進学校舎玄関前道路において、数名の学生とともに専門四年秋原実の左手首をおさえ、身体の自由を拘束し、数十回にわたつてなぐる、けるの暴行を行なつた(十三ページ。証人一人不採用)。

(十四) 近藤信夫―専門課程一年、無期停学(疎乙第二号証の十四)

ア 昭和四十四年七月十六日、封鎖を行なつた進学校舎において、ヘルメツト、ゲバ棒姿で寺山教授に対し、建物から退去するよう要求した(七ページ)。

イ 昭和四十四年八月十四日、弘仁会の常務理事が進学校舎におもむき、弘仁会の設置する赤電話の使用中止を伝えたところ、封鎖中の右校舎から出てきて、赤電話の使用を停止した場合は、あらゆる報復措置をとると宣言した(八ページ)。

ウ 昭和四十四年九月十二日、封鎖中の大講堂で行なわれた団交に封鎖グループの一員として出席した(九ページ)。

エ 昭和四十四年十一月初旬(日時不明)、伊藤教授が資料持出しについて封鎖中の学生と連絡の電話をしたところ、近藤が応答した(十ページ)。

オ 昭和四十五年一月八日午前十時二十分頃、西第一講堂入口において専門一年猫塚義夫の腹部、下腹部に打撲症を与えた(二ページ)。

カ 昭和四十五年一月八日午前中(時刻不明)、専門一年菅優の顔面をなぐつた(一ページ)。

キ 昭和四十五年一月八日午前十時頃、西第一講堂において授業妨害行為を行なつた(三ページ)。

ク 昭和四十五年一月十二日午前八時三十分頃、本部正面玄関において授業に出席する学生の入構を阻止し、授業妨害行為を行なつた(五ページ)。

(十五) 土田博美―専門課程二年、停学六月(疎乙第二号証の十五)

ア 昭和四十五年一月八日午前十時から午前十一時頃まで及び午後零時十五分頃の二度にわたり、西第二講堂及びその入口において専門二年三田村幌に対し、なぐる、ける、引つぱる等の暴行を行なつた(一ページ)。

イ 昭和四十五年一月八日午後零時十分頃、西第二講堂において専門二年中井秀紀の顔面をなぐつた(二ページ。証人一人不採用)。

ウ 昭和四十五年一月八日午後零時四十分頃、西第二講堂において専門二年村上俊吾に対し、顔面をなぐる、身体を引つぱる等の暴行を行なつた(三ページ。証人一人不採用)。

エ 昭和四十五年一月十三日午前八時五十分頃、専門三年田所哲司を後方からけとばした(四ページ。証人一人不採用)。

オ 昭和四十五年一月八日午後零時十分頃、西第二講堂において、授業中無断で講堂にはいり、授業中の学生に対して暴行を行なう等の授業妨害行為を行なつた(五ページ)。

カ 昭和四十五年一月八日午後一時四十分頃、臨床第一講堂において授業妨害行為を行なつた(六ページ)。

キ 昭和四十五年一月十日午前九時四十五分頃、臨床第一講堂において授業妨害行為を行なつた(七ページ)。

二、申立人らは、前項記載の校舎等の封鎖、占拠、本学学生に対する暴行、授業妨害を行なうほか、右行為の結果、本学における教育、研究を阻害するばかりか、疎乙第六号証記載のとおり設備の破壊、盗難、赤電話の不正使用(電話器を破壊して鍵をあけ、市外通話も可能の状態にして料金を入れないまま遠距離に通話して合計金三〇八、七六一円の料金を払わなかつたものである。)等により、物件関係金二、九九三、〇〇〇円、営繕関係金七、一八四、九三六円、合計金一〇、一七七、九三六円の損害を与えたものである。

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